キリスト教会のいま

[ Post Date ]
2008/02/13
[ Category ]
社会

大学で、学科の卒論発表会に出場して大勢の前でプレゼンテーションするゼミ生と、発表の相談をした。かなり緊張をしている日々と云う。私が彼の頭に愉氣をしたら、私の掌や顔面、後頭部にびりびりと彼の神経過敏の振動がひびく。この「びりびり」と対峙して、集中しておなかから掌に息をはき、それを退散させようとつとめる。数分後。びりびりはふっとしずまった。学生は「力がぬけてきました」とほっとした様子。

おなじ日、キリスト教会の現状をきく機会があった。もちろん教会により千差万別なのだろうが・・。
私が聞いたお話では、信者が激減し、聖職者の方たちに病が蔓延しているという。敏感な信者さんたちはそこを去るかたも多く、残る方には、そういう状態に鈍感な人の割合が多くなっているかもしれないとのこと。
一般の社会で辛く、やりきれない経験をした人が、泣いても笑ってものたうちまわっても許され、人間のすべてを受け入れられながらもっと大きな生命力に抱えられ、生き返れる場所のはずなのに。いまの教会は一般の社会以下の、形式のなかで心もいのちも身動きのとれない場所になってしまっている。
ミサも、非常に形ばかりになって、まったく人から人に何も伝わらないのだときく。また「主の平和」ととなえながら信者さん同志が握手をするときの形式性も、おどろき呆れるものだという。別のことばでただ握手するならそれも許されるが、もっとも大事な「主の平和」と唱えながら、ひどい形骸しかおこなわれていないとは。
もし愉氣がミサでおこなわれれば、どんなに人は癒され元気になるだろうか。イエスが手をふれて癒した、というできごとは、イエスだけに独占してもらわず、みんなができるものにしたらいい。

病んだキリスト教会の再生には、いのちのはたらきそのものの実感が、絶対に必要だと思う。米国黒人の教会では、ゴスペルが生の喜びを躍動的に歌い、黒人ならではのキリスト界をつくった。韓国では、さすがシャーマニズムの土地柄。異言を唱えるミサがたくさん生まれでたときく。日本では、ゴスペル、異言でない、日本独特の生命力の賦活のしかたがあるはずだ。そうでなければキリスト教会の再生はありえないだろう。愉氣、そして活元運動は、そのなかでもっとも本質的な役割をはたすと思うのだが。

[ Post Date ]
2008/02/13
[ Category ]
社会
[ Trackback ]
http://www.typepad.jp/t/trackback/308495/11778564