雛の節句

[ Post Date ]
2008/03/03
[ Category ]
身体・性・舞踊

3月3日

私の大好きなお雛祭り。子ども達とちらし寿司やはまぐりのお吸い物など、お雛膳を一緒に作る。娘には晴れ着を着せた。
「あかりをつけましょぼんぼりに・・・・なによりうれしいひなまつり♪」この歌はすみずみまで私の気持ちのとおりだ。彩りゆたかで、色めいて、ほんのり酔ったようなこの佳き日。この作詞者も、ひなまつりに何か、魂ごと惹かれた方だったのだろう。

立春過ぎると、世の中に雛人形がたくさん飾られる。その風景にふれると私の心の深いところで活性化していくものがある。
ユングのいう「元型」には、「賢老人」「永遠の少年」などいろいろなイメージがあるが、雛人形は、「カップル」元型のイメージを表しているといえるだろう。私は雛祭りを迎える時期ずっと、自分の中のカップル元型が力を増しているのを感じ、カップルについてもの思わされることが多い。仏像をまえに仏の世界を瞑想する人がいるように、雛人形を前に私は、対関係について瞑想しがちだ。

なぜ雛は男女のペアなのだろう?川に流すためなら、人ひとりの人形でもよいだろうに。流し雛の古代的風習のころからペアだったことには、何の意味があるのだろう。カップルの災いを水に流して、カップルを再生させる風習だったのだろうか。道祖神とはどういう関係にあるのだろうか・・・?

私は自分の岐路でしばしば、忘れがたい夢をみるのだが、そのうちのいくつかは雛の夢だった。こういう体験があるので、私はユングを軽視することができない。体質的にユングと似ているのかもしれない。
10年前に見た雛の夢。
三人官女以下のお人形が、ずらりーっとたくさん段に並んでいる。見たこともないくらい、何十体もぎっしり居並び賑わっている。ところが一番上の台の、お雛様とお内裏様だけは不在だった。その空席の台を見ながら、しかし私は夢の中で知っていた。今、内裏雛は不在だけれど、そのうちまた戻ってくる。私の知らなかったくらいの根源的な力を帯びて、戻ってくる、と。
雛は、または、カップルというものは、普通に人が考えていたり、私が思ってきたよりも、ずっと根源的な力を帯びているものらしい。

男女のカップル。「彼は特別」「彼女は特別」と互いに思いあう、ほかの人とは取り替えることのできない固有の関係。しかし、その固有性の次元の基盤には、男、女という類がある。彼も彼女も類の中のひとりであり、互いに引き付けあっているのは、類と類の間の磁力でもある。この類という無名性の次元がある。無名の男と女の類には限りない多様性が含まれている。

整体の先生がおもしろいことをおっしゃっていた。性すなわち有性生殖は、単性生殖と異なって、まったく異質なものとの出会い・合一による生命の更新を本質とする。だから、性とは異質性、多様性へと、本質的に開かれているものだ。そして、身体的に性に衰弱している人は(性のエネルギーの程度は、男性は胸椎11番、腰椎1番と3番、女性は腰椎1、3、4番に表れるのだが)、性的関心、性的行動から、さまざまな面で、多様性が失われているという。潔癖症の人(ほかの人に触れるとばいきんがつくから触れたくないという感覚)、どういう人でなければ相手にできないという制限の意識、自分のひとりよがりの妄想世界への自閉、オナニストも。
性に力のある人は、異質な人、多様な人に関心が開かれるということだ。

また、以前同性愛のかたにうかがったお話では、動物界でも、多数派ではないけれども同性愛があり、それがあることで却って異性愛の個体の生殖能力も増すのだという。性の活力が満ちることと、同性愛も受容することは相即するだろう。

もちろん、異質性や多様性に開かれすぎると社会秩序が混乱してしまうから、一方でさまざまな制度により、性的関心と行動は秩序づけられている。

婚姻制度としては村内婚のような内婚制もある一方で、性関係では、自分と最もかけ離れた相手と交合を、勢いのある人たちは望んでもとうとする。日本人女性が黒人男性と仲良くしたがったり、まじめなサラリーマンが思いがけず家出娘に惹かれたり・・・。それは到って健全なことではないかと思う。

内裏雛にあらわされるカップルには、きびしく拮抗するふたつの原理が含まれているのかもしれない。
この男性、この女性でなければならないという固有性。
できるだけ多様な、できるだけ今の自分と遠い多くの相手をふくむ、男性の類、女性の類という無名性。
この拮抗に、内裏雛の存在のもつ力強さがあるのかもしれない。

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2008/03/03
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