バリ島の身体文化 (トランスする身体)
- [ Post Date ]
- 2008/04/04
- [ Category ]
- 身体・性・舞踊
三月末に訪れたバリ島について、また。
バリの人たちの信仰深さには、接する機会が多かった。
私たちが滞在した時期は、ちょうど、バリの母なる寺といわれるブサキ寺院の、年に最大の創立祭(オダラン ところで、バリの伝統的な暦では、一ヶ月が35日、一年が6ヶ月で210日が一年だ。珍しいこと!)に重なり、バリ中の人たちが大型バスなどを連ねて参拝するところにも混じることができた。
ご先祖様、神様への捧げ物を、きれいな模様の編み籠に入れた女性たち。
捧げ物は、手に持って運んではならず、頭の上に載せて運ぶことになっている。背筋がまっすぐ伸びた、すっきりした美しい参拝姿が並んでいく。頭にものを乗せて運ぶのは、バリでは日常でも普通のことで、巨大な野菜籠や、40キロ分くらいの米袋も平気ではこぶ。これは姿勢を整えるのにどんなに効果的だろう。日本でも真似したいくらいだ。日本髪を結う前の時代は、日本でもあったそうだが。
そういう特別なお祭りだけでなく、日々人々は神様に礼拝し、神様を感じている。各家の敷地には必ず神様のほこらがあるし、各村には必ず三大神の寺院、つまり三つのお寺がある。タイやインドのように聖職者が重要な役割を果たすというよりは、世俗の人たちがみなで信仰生活を担い合っている。
バリの寺院について私は無知で、本尊像というのがあるとばかり思っていた。
日本のお寺や、インドのお寺のように。
だがバリの寺院の本殿の、中心の座はからっぽだった!
石像や木像はたくさん造られているが、それは本尊像になることはない。周囲の守り像くらいの意味なのだ。
バリでは、神様はあの世におられる、またはこの世のどこかでいつもはたらいている。それをお祭りでは本殿にお招きする。そのために祭りには芸能がかかせない。本殿がからっぽだからこそ、宗教的な芸能が豊かに発達してきたのだ。
古都ウブッドの広場でひと晩、トレナ・ジェンガラという舞踊団の公演を見ることができた。三つの演目があり、①ケチャ ②サンヒャン・ドゥダリ・ダンス ③サンヒャン・ジャラン・ダンス だ。ケチャは、私が大学時代「芸能山城組」という芸能集団に入っていたころから、大好きな合唱、舞踊で、ここで完全版のケチャを至近距離で味わえ、本当に身体中に響いた。
この欄では、より驚きの大きかった、あとのふたつについて記したい。
サンヒャン・ドゥダリ・ダンスとは、「聖なる天女の踊り」という意味で、村の厄病や災害の折に、それを払うために少女によって踊られてきたものだという。10歳くらいの少女2人が、母親世代の女性にそれぞれ抱えられて広場のまんなかに運ばれ下ろされる。後ろでは女性達のコーラスと、ときおりケチャの合唱も混じる。少女達は右手の扇を激しく振り続け、首を左右に動かし続け、左手はしなやかに動かして、さまざまなしぐさをとって踊る。
この少女達は、はじめからもう何かに集中している様子だったが、途中からは全く、目の前の100人ほどの観客になど一瞥もくれなくなった。そして、合唱があるクライマックスに達すると二人の少女はまるで失神のように二人並んで地に倒れてしまった。
母親のような女性が少女に駆け寄って、もう一度立たせる。
すると少女達はまた踊りだす。でも扇の動きはだんだん激しくなり、クライマックスでまた倒れ伏す。
女性達が立たせる。また踊りだす。そして少女達は最後にまた倒れてしまった。
この三度目の昏倒は、本当の失神のように見えた。
女性達が支えるが、それでも少女達は立ち上がれない。脚を投げ出して座り込み、茫然としてしまっている。不機嫌そうともいえる表情。
初潮前の少女は穢れていないために、トランスにはいって神様のお告げをうけることができるのだとバリではいう。
それにしても、大勢の観光客の前で、女の子たちが本当にトランスにはいるとは、想像していなかった。
観光客目あてという発想から、とても遠いところで生きているのだろう。
いったいどんな修行をしているのだろう?
この子たちにトランスをどのように修練させているのだろう?
その次にみたサンヒャン・ジャラン・ダンス「聖なる馬の踊り」にも驚かされた。
ココナッツの乾燥させた殻に火をつけた、ぼうぼうと燃える焚き火の周りを、ケチャのコーラスにのって、馬の人形にまたがった男性が踊る。男性は激しく踊って焚き火の中にはいり、裸足で焚き火をけちらし、火の粉を散らす。熱さへの躊躇も抵抗も、彼にはまったくない。
だんだん火が散らばり、小さくなって、踊りが終わると、彼も茫然と座り込んで、立ち上がれなかった。ケチャの合唱隊も、観光客もみんな帰っても、脚を投げ出してひとり広場に座っている。
観光客のひとりが、一緒に写真をとっていいですか、と尋ねると、やさしい笑みをふっとうかべて承諾していた。
踊り手の、この精根尽き果てた姿。
聞くところでは、トランスにはいると火傷はしなくなるという。どんな状態だろう。
本当に神に自分を捧げている姿だ。観光客は意識に入っていない。
神様を本当に身近に、あるときは自分自身の中に、感じている生活なのだ。
バリ人のガイドさんが教えてくれたが、お寺のお祭りでも時々、トランスになって神様のお告げを口走る人たちを見るという。
悪霊が憑いて「ヒーッヒッヒッヒーー、」とおどろおどろしい声で叫ぶ人。
良い神様が憑いて美しい声で語る人。当人もその状態のことは、覚えていないという。
ガイドさんは、自分では経験がないけど、と真似をしてみせてくれて笑った。
日本でも狐つきや、神懸かりは、ついこの間まで珍しい話ではなかった。その能力を失ったことは、日本人の精神と身体にどんな影響を与えたのだろう。どのような身体疾患、精神疾患を新たに生じさせたのだろう。
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