松風

[ Post Date ]
2008/05/05
[ Category ]
舞えや謡えや

5月3日(土) 
矢来能楽堂にてお能の発表会があった。出番をいろいろといただいていたので、準備の暗記にいそがしかった・・。
『松風』の素謡と、舞囃子の地謡に出させていただき、この曲をしみじみ味わっていたので、少しこれについて書きたい。
「松風熊野、米の飯」という言いかたがある。この2曲がたいへん愛好されているので、能楽師はこれさえ上演していれば食べていけるという意味だという。2曲とも男女のドラマだ。どのようなドラマが、かつての日本人にそれほど愛好されていたのだろう?

『松風』は、在原行平と愛し合った、汐汲み海女の姉妹、松風と村雨が主人公だ。3年の間愛し合い、行平の帰京で会えなくなった後も、姉妹は彼を慕い続け、自分達の死後にすら執心の霊となって姿をあらわす。多くの日本人が共鳴した、こういう一途な執心にふれると、現在、何事も刹那的になり、捨てる技術が流行ることにささくれがちな身は、心底ほっとする。自分の心を切り刻んで、次々捨てなくてもよいのだ。

日本人にとって塩は神聖なものであり、土俵入りにもお葬式帰りにも、お清め塩が使われる。汐汲みはそれに連なる神事であり、在原行平という貴公子と、身分違いの松風村雨が出会えるのも、彼女達が神事をつかさどるからだろう。日本舞踊の「汐汲」ではより直接に、踊り手は行平の烏帽子水干を着て、汐汲むさまをみせる。汐汲みは、実際には下層の人たちの奴隷的な重労働であるのに、『松風』でも『汐汲』でも最高の優美さで描かれるのは、これが、いのちの源を汲む、聖なる業だからだ。

日本人が汐=潮に聖なる力を感じているとは、いまの男子学生たちが「潮について教えて下さい」と私に質問に来るたびに思うことでもある。潮の現象に、日本人はなにか人間を超えたはたらきをみて感動するようだ。

汐汲みは、しかし繰り返される重労働であり、汐汲み海女は、飽きっぽくてはつとまらない。また、汐が煮詰まり藻が焼かれるように、ゆっくりゆっくり凝縮することを目指す業で、日々それにたずさわる女は、おのずと思慕をも濃くしていくのではないか。しかし思いはしまいには、どろどろと濃縮されるのではなく、きらきらと結晶化する。どろどろした暗い情念は『松風』からは感じられない。思いつめても、彼女達の心は透き通って汚れが無い。

姉妹はどのように行平と愛し合ったのだろう?姉妹の間に嫉妬がないことから、順番を待たされることがなかった関係だということは疑えない。行平とのなれそめ、どのようにして姉妹双方が恋慕するにいたったか、興味深い。いずれにしても、三人同衾ではあろう。
3Pを古語ではどう呼ぶのだろう。その体験は「妄執の夢に見みゆるなり」と、夢にまででてきてしまうのだが。
しかも、姉が妹よりも情が深い。姉妹ともが愛するなかで、やや冷静な妹と対比させてより姉の情愛が深いと描くことで、その狂おしさがよく伝わる。

恋慕のあまり、松風には、松の木が行平に見えてしまう。ここでの妹とのやりとりは胸に迫る。

松風「あら嬉しや、あれに行平の御入りあるが、松風と召されさむらふぞや、いで参ろう。」
村雨「あさましや・・。娑婆にての妄執をなお忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ、行平は御入りもさむらはぬものを。」
松風「うたての人の言い事や、あの松こそは行平よ。たとひ暫しは別るるとも、待つとしきかば帰りこんと・・」

この妄執ゆえに、松風は仏教的な救いを得られないようなのだが、もはやそういう救いは、この曲ではリアリティをもってはいない。
むしろ、執心の少ない村雨は、夜が明けると跡形もなく消えてしまうような存在だ。消えるとは成仏したということだともいえるが、一方の松風は、「松風ばかりや残るらん。」と描かれていて、松のもとに残り、風として松を愛撫し続ける。成仏しないとしても、消えてしまう妹より幸せだともいえる。

松風熊野、米の飯
すべての能のうち随一と好まれてきた『松風』は、情愛と性愛がかくも濃い世界である。それでいて、聖なる清澄さが失われることがない。

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2008/05/05
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