災害の予知システム

[ Post Date ]
2008/06/16
[ Category ]
社会

5月2日ミャンマーのサイクロン、5月12日四川大地震、6月14日岩手宮城地震、と容赦ない天災がつづく。ミャンマーでは、養殖場などのためのマングローブ林の伐採が、水害を拡大したという。四川ではずさんな手抜き工事で作られた小学校が瓦解し、たくさんの子どもたちが無残にも下敷きになって亡くなった。人災のために命を落とす人が多い。復興までのこれからの10年、20年のあいだにも、社会的弱者は、さまざまな人災の犠牲になってせっかく生き延びた命をうしなっていくのではないか。人災で人が亡くなっていくことを思うと、天災自体で亡くなるよりも、より胸中のがさがさした違和感がいつまでも続く。

今日はそれは措いて、いかに事前に逃げ出すかを話題にしたいと思う。

地震や水害の前に、家のネズミや猫がすっかりいなくなり、蟻たちも大行列で引越しをするとよくきく。同じいきもので、ネズミや猫や蟻にできることが、なぜ人間にできないのだろう?いや、人間でもかなりいい線で予知はできていると思うのだ。

今回の大災害で、ひとびとがどのくらい予知、予感をしていたか、これからいろいろと話が伝わるだろうが、人間も、個人差はあれ災害をどこかで予知できることが多い。阪神淡路大震災のときは、未明だったにもかかわらず、多くの人が目をさましていて、トイレにでかける途中で地震にあったりしていた。また普段と違った用心をして助かった人も多い。阪神淡路大震災では、地震の直前、大地からものすごい光がまだ薄暗い空に放射されたと聞く。それだけの大地のエネルギーが放たれるのなら、身体がそれを何らかの感覚として感じ取れるのも理解できるのではないか。

地震に限らないが、自分の身に何か危険が迫っているとき、身体は本人も無自覚のうちに、脈の変調などを起こしているという。

古武道研究家の甲野陽紀さんが江戸川大学で特別講師として授業して下さったときに、教えてくださったことを紹介しよう。自分の右手首の脈を、左手の人差し指、中指、薬指の三指で触れて脈の様子を知る。そうしながら同時に、右手の親指と、人差し指中指とで、頚動脈にふれて脈をしらべる。このふたつの脈は、その人が無事な場所にいる多くのときには、ほとんど同時に打つ。ところが、その人に危険が迫っているときには、一方の脈と脈の間で、もう一方の脈がうつ、ちぐはぐな独特の脈迫になるという。

その場にいる誰もがそのようなちぐはぐな脈の場合、その皆に災害が襲う可能性がある。

また、周りにいる人はだれもそんなことはないのに、自分だけがちぐはぐな脈の場合、その場の自分だけに危険が迫っているということだという。陽紀さんのご父君の甲野善紀氏も、電車に乗ろうとした時、なぜかお一人だけそのようなちぐはぐな脈になったので、その電車は見送って、脈が正常になるのを確かめて、後の電車に乗ったという。意識はしていなくても、身体はどこかで、危険が近いと察知し、独特の反応をおこしている。この反応については、もっと生理学的に研究が進んでほしい。そして私たちはもっと身体のそういう声に耳を傾けるべきだろう。

もちろん、地震の客観的な予兆としては、地震雲、動物や昆虫らの日常と違う行動など、人間が観察可能なできごともたくさんありうる。

天災を予感したり、予兆を見つけたりしたら、市民がどこかの情報センターに通報するしくみを作ってはどうだろう?気象庁でもよいし、民間のセンターをつくってもいい。ネット上にそのようなサイトを作り、そのサイトが実績をつめば、だんだん信頼も増すと思う。予知能力の特に高い人が予知士として登録してくれるといいのではないか?予知士は過去の実績から、五つ星とかで、その通報内容の信憑性にランク付けがされるのもいいと思うし。

なんか面白いことになりそう。これまでに認められてこなかった次元の能力が、社会的に買われることになりますね。

右手首と頚動脈の脈をみる習慣も、多くの人に広まったらいいと思う。

ネズミや猫が、地震で危ない地帯から逃げ出すのに、人間がとどまってむざむざと死んでいくのは口惜しいと思うのだ。ネズミ並み、いやネズミ以上に賢く生きたいと思う。

さて、6月9日は、この大学の女子学生だった人のご命日にあたる。今年ははや7回忌。不幸にも、彼女は在学中、突然の交通事故で亡くなったのだった。それは本当に不幸なできごとで、たくさんの人たちがそれで苦しむことになった(今はそれについては書かないでおきますね)。ここで紹介したいのは、彼女が、亡くなる1ヶ月弱前にしたと、お母様からうかがったことだ。彼女は、5月の母の日に、アルバイトでためたお金をすべて費やして、それまでになく、驚くほど大きな、赤いカーネーションの花束を、お母様にプレゼントしたのだという。もう、両手にあふれ、かかえて廊下を歩けないほどの大きな花束を。

彼女は、自分の死が近いこと、これが最後の母の日になることを、どこかで感じていたのだと思う。彼女の死は、交通事故という人災だし、いろいろ悔いも残るものだが、亡くなること自体は、彼女にもわかっており、また運命として変えられないものだったと、考えざるをえないと思う。そう思うとまた、彼女の死もより受けとめやすくなる。

そのように、死は、そして災害は、身体感覚で、どこか予感できるらしい。

災害から逃げ出すための予知のシステムがうまくできれば、身体は同じ災害にも、死を予感しなくてもすむだろうか。

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2008/06/16
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