社会学とは、時代や社会によって影響を受けて変化する、すべての現象をテーマにしうる、非常に幅広い学問の分野です。

私たちはたいてい、思春期にはいるころ、「私ってこのままでいいのかなあ」「僕っていったいどうなってるんだ」などと自分を省みはじめます。そして、ただ叱られないようにふるまうとかではない、自分で自分を知り、自分を作り変えていくことを始めます。初めはとても拙いやり方で、失敗の連続ですが。

社会でも同じことが起きています。19世紀に西洋で、「私たちの社会ってこのままでいいのかなあ」「私たちの社会っていったいどうなっているんだ」という社会の自己省察が始まりました。その営みが社会学です。社会が思春期に入ったということでしょうか・・?

社会の自己省察は、社会を変えようという社会主義思想も生み、自己省察の未熟さのため何億という人が死ぬ、酷い失敗もしました。まだ自己省察の歴史は100年ちょっと。進歩の途上です。現在、環境破壊、世界的な貧富の格差の広がり、先進国でのアイデンティティの不安など、自己省察を精緻におこない、改善していかなければ、多くの不幸が起こってしまいます。研究者にならない多くの人も、自分達の社会がどうなっているのか、これでいいのか、社会学的に考える視点を是非もってもらいたいです。

社会学の大事な見方に、人間は社会の中で作られ、社会の違いによりかなり根本的に変わる、というものがあります。「人間なら誰だって・・・」「いつの時代でも・・・」などという考えには、社会学は警戒的です。「ちょっと待って。本当にどの社会でもそうなの?どの時代でも?」そして、他の社会や時代との比較を重視します。突き放して社会を見るのは、人の生き方の可能性を広げる発想です。社会学は、うまく使えば特定の見方に捕らわれた人を解放して、のびのび生きさせてくれる知なのです。

これまで私は社会学を専門分野とあげてきましたが、これからは身体論を第一にし、「社会学「的」身体論」というスタイルをとっていこうとしています。
社会学を第一にする専門家には、非常に広い社会現象万端に、常に自己省察的であることと、常に社会現象をさめた目で突き放して見ることを職業的に求められます。しかし、変貌の激しい現代社会の、地球全域にわたる広領域の、あまりにも多くのできごとについて、自己省察する負担に、私はもちこたえられないと感じるようになりました。また、さまざまなことを、いつも突き放して見るのでは、うまく自分の生のエネルギーを燃焼させられない、とも感じるようになりました。

グローバル化した広領域の社会の自己省察も、社会学の非専門家が、ふだんの仕事や生活のかたわら「ときどきおこなって」、社会のあり方を見直すには有意義なことですし、その人の負担感は大きすぎません。
でも社会学の専門家が、仕事や生活として「常におこなって」いくには、際限が無く大きすぎ、人の能力を超えるように思います。
さまざまなことを、いつも突き放して見るのは、生のエネルギーの集中をもたらしません。社会学を長年専門にして来られた年配の方々には、一筋の道に精魂を込めてきたという充実感が不足しているようにも感じます。
私は、さめた目はときどきもつだけにし、身体全体のものごとへの没入、そこからの直感的把握を主にしていきたくなりました。
「社会学的身体論」のスタイルでそれをしていこうと思います。

私のこれまでの関心に、「母性社会論」の一連のものがあります。「母」「母性」も私には、女として、日本人としてとても気になるテーマであり続けています。これも、今後は「母の身体」「母の性」という面から、「社会学的身体論」でとりあげていこうとしています。